2回目の公演『宇宙で眠るための方法について』で小須田と里美、伊藤正宏が参加しました。『天使は瞳を閉じて』で天使1役を演じた伊藤正宏は、1991年に役者を辞め、今では立派な放送作家です。たぶん、関係者の中で一番の稼ぎ頭です。今でも、たまにテレビ局の廊下なんかでばったり会うことがあって、会った瞬間、伊藤はじつに嫌な顔をして、「鴻上さん、ここでダメだししないで下さいよ」なんてこと言い出し、「なんのダメだしだよ?」と聞けば「決まってるじゃないですか。鴻上さんお得意の“人生のダメだし”ですよ」なんてことを早口で喋るのです。『朝日のような夕日をつれて』の少年役を記憶している方もいて、劇団内オーディションで1991年の『朝日~』は少年役を得られなかったのですが、伊藤チャンの少年役が好きだったと言って下さる方もたくさんいらっしゃいます。 長野里美、小須田康人は、10代で『第三舞台』に参加。その後、現在に至ります。四回目の公演『電気羊はカーニバルの口笛を吹く』で山下裕子、筒井真理子、池田成志、参加。
『第三舞台』とサードステージの関係をよく聞かれた時期があるのですが、『第三舞台』は劇団であり、サードステージは、『第三舞台』の公演を制作し、役者のマネジメントをする事務所、株式会社です。 で、混乱を生むのは、『第三舞台』の役者なのだけど、サードステージに所属してないという役者がいるからです。始まりは、筒井真理子でした。ある人が筒井真理子のことをいたく気に入り、ぜひ、マネジメントしたいと申し出てくれたのです。その人は、業界では有名なマネージャーで、名のある俳優さんを何人も手掛けてきた人でした。その人からそう申し込まれた時、僕は考えました。劇団としてのまとまりを考えるなら、そんなことは断った方がいいのです。が、個人の可能性ということを考えたら、俳優は愛してくれるマネージャーと一緒に活動するのが一番です。それは当たり前のことです。ですから、僕は、サードステージをやめて、その人の会社に所属することを真理子に勧めました。たしか1993年のことです。それが、劇団員であっても、マネジメントの所属は違うということの始まりでした。 今では、山下裕子も『第三舞台』の劇団員であっても、サードステージの所属ではありません。ずっとサードステージの制作だった宍戸紀子が作った会社の所属です。84年の『モダン・ホラー』で京晋佑参加。85年の若手番外公演『春にして君とわかれ』で筧利夫参加。87年『朝日のような夕日をつれて’87』で勝村政信参加。
じつは僕は1998年、「あなたは自分のことを第三舞台の劇団員だと思ってるの?」という手紙をそれぞれの役者に送りました。どうしてこんな手紙になるのかは、ここでは簡単に説明はできません。やがて書く一冊の本に譲るとして、「第三舞台をやめました。劇団員ではありません」と答えたのは、勝村政信、京晋佑。「劇団員と思っています」と答えたのは、大高洋夫、小須田康人、長野里美、筒井真理子、山下裕子。「イギリスまで行った人がそんな細かいことにこだわっちゃダメ!」と意味不明の解答を送ってきたのは筧利夫。「どうして俺にその手紙が来ないんだ!」と怒ったのは、池田成志。「えっ?手紙が来たらなんて書くの?」と聞けば、「劇団員なわけなかろうと書く」と怒りながら胸を張ったのも池田成志。意味不明のまま胸を張れる成志がうらやましい。そんな返信をもらいながら、その後、京とも成志とも筧とも僕は芝居をしています。20年近く芝居をしてきた中でできた関係性とはそういうことなのかもしれません。85年の『リレイヤー』から参加した藤谷美紀は、フリーで役者を続けています。89年の『宇宙で眠るための方法について 序章』から参加した利根川祐子は、今ではエアロビクスの名物インストラクターになり、日々汗をかいています。
『第三舞台』は、8人から10人で20年間を過ごしてきました。『第三舞台』の名前だけを知っている人は、何十人、百人以上の劇団員がいると思っているようですが、実際は、8人から10人です。大高、小須田、筧、勝村、伊藤、京、里美、真理子、裕子、そして藤谷と利根川で20年近くを過ごしたのです。あ、時々、成志に助けられました。それでほとんど全員です。初期、早稲田の演劇研究会に所属している時は、新人として何人もの学生が通り過ぎましたが、プロの意識を持ってからは(実際にプロになる直前の段階からは)8人から10人でした。こんな劇団はそうはないだろうと思います。この濃密さが幸福でもあり試練でもありました。
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