あとがきにかえて(2002.5)   鴻上尚史


20年たちました。
旗揚げの年、1981年に生まれた人にとっては、なんだか、おじさんおばさんの劇団だと感じるかもしれません。自分が生まれた年にできた劇団なんて、現在というより歴史の方に近いと感じるかもしれません。旗揚げした時、僕は22歳、大高は21歳でした。1981年に生まれて、今、劇団をやっている人がいたら、あの当時、僕達が感じていたことと同じことを感じているのかもしれません。あの当時、僕達は、“大人達の劇団はみんなクソで、絶対に勝ってやる”と思っていました。そして僕達の実感で僕達の見たいものを作れば、勝てると信じていました。

旗揚げメンバーは5人。『朝日のような夕日をつれて』で部長役の大高洋夫とは20年のつきあいになりました。もちろん、こんな年月、二人とも予想もしなかったはずです。20年、一緒にいることで、お互いの恋愛遍歴だの恥ずかしい話だのを知ってしまいました。困ったことです。

社長役の森下義貴は、2年後、俳優をやめ、家業を継いだ後、会社を興しました。 儲かったら稽古場を作ってやると言いながら、まだ儲かってないらしく、『ファントム・ペイン』も見に来てくれましたが、稽古場のことは何も言ってませんでした。いつかは儲かると、僕は信じています。

ゴドー1をやった岩谷真哉は、1984年5月8日、バイク事故でなくなりました。 『朝日のような夕日をつれて』は今のところ6回再演されていますが、ゴドー1の基本を作ったのは岩谷でした。岐阜県の各務原市にある岩谷の実家に、一時期、役者達とずっと通っていたことがありました。大阪公演の前後、東京からの移動の途中で実家に寄らせてもらえば、岩谷のお母さんの手料理に僕達は興奮して、お腹一杯になり、酔っぱらい、やっぱり興奮して、寝られませんでした。そして、岩谷のお母さんが1996年に亡くなり、実家におじゃますることもなくなりました。

岩谷の事故現場の早稲田通り、高円寺の材木屋付近もすっかり変わりました。 毎年、命日に現場に行けば、誰が置いたのか花束がありました。岩谷には、(当時)学生劇団とは思えないぐらい熱狂的なファンがたくさんいて、ずっと愛されているんだなあと感じられました。そして、いつしか花束も見られなくなりました。ただ時間がたったのだと僕は思います。岩谷を忘れたのではなく、時間がたっただけです。今でもときおり、アンケートで、「岩谷さんが死んで、第三舞台をもう見ないと決めたのですが、十年ぶりに見に来ました」という文字を見ることがあります。ファンの中では、岩谷は生きているのです。そして、もちろん、僕の中でも。

ゴドー2役の名越寿昭は、1986年の『ハッシャ・バイ』を最後に教師になりました。今でも時折「名越さんはどうしているのですか?」と聞かれることがあります。名越は、数年間は、公演を見に来てくれたのですが、その後、ぱったりと来なくなりました。名越の高校の教え子が「学校で、『天使は瞳を閉じて』をやりました。名越先生が演出をしてくれました」なんてアンケートでチクることは何回もありました。どうも名越は、「俺は、演劇に詳しい」と胸を張っているらしいということも分かりました。分かりましたが、芝居を見に来なくなりました。 一度、稽古場に遊びに来て、喜んだ僕が「名越、ちょっと後輩達に演技の手本を見せてやってくれよ」と言い、無理矢理演技させて、「名越、お前、発声ができてないじゃないか!」と怒ったことを根に持っているのかもしれません。それでも、僕は、名越が教師を無事定年退職したら、出演交渉しようと思っています。なあに、もうすぐです。あと15年ほどです。わはははは。僕は本気です。

少年役の松富哲郎君は、「頼む、人間がいないんだ、一回だけ出てくれ」という必死の頼みで一回だけ出てくれた人です。彼が出なかったら、少年役は、僕がやるとこになっていました。それはそれで、いったい、その後鴻上はどんな人生になったんだという怖いもの見たさの興味はありますが、それでも彼がいなかったら大変なことになっていたのは間違いないです。本当に一回だけ出て、その後、まったく公演に来てくれませんでした。どこでどうしているのか、その去り方の潔さは感動的でさえあって、『第三舞台』がマスコミで騒がれている時なんて、「僕は旗揚げメンバーだよ〜ん」なんて叫べば、勘違いした演劇ファンの女の子の一人ぐらいなんとかなったかもしれないのに、松富君は出現しませんでした。今、どうしているのでしょう。あの当時、19歳でしたから、今、39歳ですか。