一体、物語とは何なのか。
死刑囚達の記録だけを集めた本を読んだことがあります。裁判で死刑の判決をうけ、絞首台の階段を登るまでの、ある者にとっては短い、またある者にとっては長い、”待っている”時間の記録です。
その中で、一人の男は、ある日急に花を生け始めたのです。といっても、単に粗末な花ビンに、一輪の花をさしておくだけのものですが。そして、その日からその男は見違えるほど元気になったのです。死刑の直前、その男はその訳を尋ねた看守にこう語りました。
「夜ねる時に、明日おきたら花ビンの水をとりかえる仕事がある、だから明日生きていける、そう思った。」これが物語なのです。花の美しさに心が洗われたのでも何でもない、ただ自分の存在の意味付けに成功したこと、ここに物語があるのです。
物語とは、人間の悲しいまでの意味の病なのです。登場人物が、ああなってこうなってというのが物語ではありません。また一見ストーリーがないような話でも、物語は生きているのです。そこでうごめいている人間が、自分の存在を何らかの形で解釈しようとしたり、それは同時に世界を解釈しようとすることでもあるのですが、そういう意味作用が 働いているかぎり、物語は陰で元気なのです。
では、何故物語を手放さなければいけないのか?
それは、今の解釈は、何も生みはしないことが分かりきっているからです。
かつての戦争も学園闘争も、すべて物語の解釈にのっとった一つの見方からでたものなのです。たとえばマルクスの物語とは何か。彼は、資本主義を分析しようとして産業革命からその起こりをとらえました。しかし、資本主義の起こりを時間的に区切ったのは、彼なのです。彼が神となって世界を区切ったのです。そして彼は、その世界の神をみつけようとしたのです。神は自分自身以外ないのに。
物語の向こうへいきたいという願いは、物語の中に、ロマンを見い出すことが不毛だからでなく、ただ悲しいまでに意味にふりまわされて滅んでいくことを避けたいと思う人間達の最後の抵抗をあらわしているのです。
涙を流している人間の涙をふくハンカチのような芝居がやりたいと思います。
しょせんは、芝居などというものは、涙を流す根本の理由に対しては無力なのですから。
今日はどうもありがとう。
せまいところですが、ゆっくりお楽しみください。
(鴻上尚史「宇宙で眠るための方法について・ごあいさつ」)
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