天使は瞳を閉じて
~インターナショナル・ヴァージョン~
第26回公演
1991.11.6~11.9 LONDON・MERMAID THEATRE
1991.11.13~11.16 EDINBURGH・ST・ BRIDES CENTER
1991.11.20~11.21 BELFAST・STRANMILLIS THEATRE
1991.12.28~1992.1.5 大阪近鉄小劇場
1992.1.11~2.9 新宿・シアターアプル
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例えば、あなたが一人旅に出たとします。その想い出は、永遠に語られるでしょう。何葉かの写真を人に見せながら、その一人旅の思いでは、あなたの人生の中で、永遠に語り続けられるはずです。
友達と二人で旅行に出たとします。その想い出もまた、永遠に語られるでしょう。その友人と仲たがいしても、その想い出は誰かに語られるでしょう。あなたがその気になりさえすれば、その想い出は、いつでも語られるのです。
では、恋人と二人で出かけた想い出は、語られるのだろうかと思うのです。もうすでに終わってしまった恋人との想いは、語られるのだろうかと思うのです。旅行の想い出だけではありません。二人のかつてあった生活、かつてあった感情、かつてあったささいな事件。それらの想いは、語られるのだろうかと思うのです。
別れることが悲しいのではなく、二度と語られなくなる言葉が生まれることが悲しいのじゃないかと思うことがあります。二人で行った場所、二人でついに行けなかった場所、二人ですごした日常、二人で起した事件。それらに関する言葉は、もはや、お互いの人生の中で、二度と語られることはないだろう。あんなことがあったね、こんなことがあったねと、お互いの言葉として二度と生まれては来ないだろうという確信が、悲しいのじゃないかと思うのです。だって、新しい恋人とそんな話をするはずもなく、酒の席で友人に語るのも失礼というものです。
とすれば、その語られなくなった言葉は、どこに行くのだろうと思うのです。二度と語られなくなった言葉の想いは、宙ぶらりんのまま、さまよいさまよい、どこにたどり着くのだろうと思うのです。言葉が、言霊で、力を持つものなら、その二度と語られなくなった膨大な言葉達の想いは、きっとどこかに集まっているはずです。そして何かを生み出そうとしているはずなのです。
『二度と語られなくなった言葉の想い』
もっともこれは、今回の芝居のテーマとは、直接、関係はありません。これは次回作『ファントム・ペイン』のテーマです。(『ファントム・ペイン』とは、手術で、例えば右足を失った人が、手術後、失くなった右足が痛いと感じる感覚のことです。「幻痛」と言います。)
今回の芝居は、『二度と語られなくなった言葉』が生まれるまでの芝居です。誰も悪くなく、ただ一生懸命に生きているだけで「二度と語られなくなった言葉」が生まれてしまうまでの物語です。
上演内容は、イギリスとほぼ同じです。イギリスでは景気づけに、「ハッシャ・バイ」でやったフレンチ・カンカンを踊りましたが、それ以外は、ロンドンのにーちゃんが見たものと、大阪のねーちゃんが見るものと、エジンバラのばーちゃんが見たものと、東京のとっつぁんが見るものは同じです。
「二度と語られなくなった言葉」があったことさえ忘れていくのが、大人になることなのだろうかと思います。そんな言葉を、忘れたことさえ忘れていくのが、生きていくことなのだろうかと思います。
それにしても痛い。二度と語られなくなった言葉をかかえたまま、生きていくのは、じつに痛い。生きているまさにその時、それが二度と語られなくなる言葉になるかどうか分らないことが、なおさら、どきどきするぐらい痛い。
二度と語られなくなった言葉達は、どんな想いで、僕を、あなたを見つめているのか。微笑んでいるのか、苦笑しているのか、困っているのか。ひょっとすると、二度と語られなくなった言葉達は、その力を増し、現在進行形の恋人の間にも出現しているのかもしれません。そして、出現しながら、したたかに僕達を見つめているのかもしれません。生きていくことは、二度と語られなくなった言葉を生み続けること。ならば、その言葉の想いは、誰が見つめるのか。神を持たぬ僕達の、その言葉の想いは、誰が見とどけるのか。
あなたの、二度と語られなくなった言葉達は、どんな顔をしていますか。
今日はどうもありがとう。ごゆっくりごらん下さい。では。
(鴻上尚史「天使は瞳を閉じて~インターナショナル・ヴァージョン~・ごあいさつ」)
<THE JAPAN FESTIVAL1991 /Japan as never seen before>