「ベルリン 天使の詩」という映画を観た時、じつは、僕は、こっそりと腹立たしい思いにとらわれていました。もちろん、作品に感動した上での腹立たしさだったのですが、偉そうに言ってしまえば、問題はこの後じゃないかと思ったのです。
一人の人間の女性に恋した天使が、人間になり、その女性を捜し歩く。そして、ラスト、その女性にとうとう出会い、二人の旅立ちが始まる。それを見つめる、人間にならなかったもう一人の天使。ストーリーだけを強引にまとめてしまえば、こういう話です。
僕はこのラストを見ながら、怒っていたのです。問題はこの後じゃないか。もちろん、この腹立たしさは、「ベルリン 天使の詩」に感動したからこそ起こった腹立たしさでした。
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旅立ちを描くことは、感動的です。それは真新しいノートを前にした時の感動と似ています。
一昔前、プレゼントに、真っ白い本というのが流行しましたが、真っ白い本というのは、常に感動的なのです。なぜなら、それは可能性の美しさだからです。
「ベルリン 天使の詩」はこの可能性を歌い上げて、終わっているのです。
好きになってしまった女性との関係だけではありません。この映画は、世界との関係性の旅立ちを歌っていたのです。
天使が人間になって、初めて、コーヒーを飲むというシーンで、(天使の時代は、白黒だったフィルムが、人間になった瞬間、カラーになるのですが)天使は、いえ、人間になった元天使は、コーヒーの味に感動するのです。コーヒーが美味しかったからではありません。コーヒーが、温かいこと、液体であること、そして何よりも、コーヒーがコーヒーであることに感動するのです。
もちろんカラーになった風景にも感動します。風景がきれいだからではありません。
風景が風景であること、そのこと自体に感動するのです。
普通、関係性という言葉は、人間対人間を表わします。芸術は、常に、この対人間の関係性を描き続けてきました。そして、芸術は、観念の袋小路に踏み込んでしまい、物語という名のコピーを量産し続けるか、物語を嘆き続ける前衛を生み続けているのです。
が、この映画の関係性は、人間対物質の関係性なのです。関係性という時、人間の可能性を探るために、一度、対物質の関係性に取り組んでみようとしているのです。世界との関係性という時、今は、世界という名の人間のことです。が、世界という言葉の中には、物質が存在しているのです。
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人間になった元天使はどうしたのだろう。いつか恋が終わり、それは少しも悲しいことじゃなく、それでも恋は終わり、そしてコーヒーであるだけで感動的だったコーヒーは、物質という存在から観念という存在へと、下落し、風景は風景でなくなる。その時、あの天使はどうしたのだろう。いや、どうすればいいのだろう。
そして、彼の後に続く天使はどうしたらいいのだろう。
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旅立ちを書くことはたやすく、可能性を歌い上げることは感動的にやさしい。僕は、その後を書き続けたい。それが、僕が芝居を続けている唯一の理由なのです。
僕たちは、絶望よりも希望に鈍感で、希望よりも絶望に敏感です。
ですが、この作品は決して、悲劇ではありません。
(鴻上尚史 1988.10.27)
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