物語を見事に完結させることを、「前向きに進むこと」とするのなら、鴻上の作品は、ただ「進むこと」だけで成立している作品である。だからこそ、鴻上の作品の現代性がある。
私達は、前に向かって進んでいるなどという確信はない。19世紀ならともかく、現代において、こちらが前向きなのだなどと言い放てる人間がいたら、それはどうかしているのだ。
だからこそ、鴻上の作品は速度や情報量や笑いが問題となる。それは、ただ「進むこと」で作品を成立させるための必要な方法論なのである。では、ゆっくりとした速度で、鴻上の作品は成立しないのだろうか。意外な答えだが、私は成立すると考える。ただし、ゆっくりとセリフを言うことで、鴻上がちりばめている完成へのきっかけが、次々と顔を出していくのだ。それが露呈することを鴻上は嫌っているのではないかと、私は思っている。それは、劇場を出て、家路へと急ぐ途中、アスファルトをふと見つめている時に気付けばいいものではないか。スモッグにかすむ星をひとつ見つけた時に気付けばいいものではないのか。眠りに落ちる一瞬、はっと思い出せばいいものではないか。鴻上はそう思っているとしか思えない。
世界戯曲史の観点から見れば、シェイクスピアからチェーホフへと発展したリアリズムと、ベケット、イヨネスコ等の不条理のふたつの運動を経た、きわめて、現代的な課題と取り組んでいると言えるのである。
鴻上の綱渡りがこれからどうなっていくのか、私は注意深く見守りたいと思う。
私事で恐縮であるが、私と鴻上の交遊は、1991年の第三舞台のロンドン公演から始まった。それまでに、鴻上は、私の演劇理論書「リアル・プレイ」を読んでいてくれたのだ。日本では、私と鴻上が同一人物であるなどという素敵なユーモアが一部にあるそうだが、残念ながらそうではない。
私は、1982年、ブロードウェイで実験的新作を発表、リアリズムでも不条理でもない、まさに「走り続けること」だけで成立させようとした演劇的すぎる演劇の興行的失敗によって、約10年間、沈黙せざるをえなかった。
鴻上が私の著作の一部を日本で紹介してくれて、それに刺激された日本人が私を尋ねてニューヨークへ行き、ジョジョ・マッコイなどという男は存在しないと言われたことが鴻上と私の同一人物説の根拠となった。だが、私は実際、数十億という負債によって、存在しない男になっていたのだ。だが、私はまた蘇った。はるかニューヨークから、鴻上に同士的連帯の挨拶を送る。
ジョジョ・マッコイ
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