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一時期僕は、自分の脚本が、どんどん明るくなる事を感じていた。
それは偶然、第三舞台の名が売れてくる時期と重なったため、一部の客から、「売れて甘くなった」と言われた。
だが、そんな評価とは正反対に、じつは、脚本を書いている僕の心の中は、どんどん暗くなっていたのだ。
旗揚げして4年。僕は、自分の心に正直に脚本を書いてきた。とても当たり前のことのようなことだけど、一度でも文章を書いたことのある人なら、それがどれだけ難しいことか、お分かりいただけると思う。
僕の心は、時代と共に、どんどん暗くなっていった。そして、必然的に、書くものは、どんどん明るくなっていった。それは僕にとっては、きわめて当たり前のことだった。
正確にそれを伝えるのは難しいのだけれど、あえて言語化すれば「希望がなければ絶望もうたえない」というような意味あいになる。
言ってしまうと、そんな大そーなことじゃないんだ、という否定の声が自分の内からわき上がるが、それでも意味的には、このフレーズが一番近い。管理ではなく洗脳が、孤独ではなく自閉が、この4年間の流れのように感じるのだ。そして、どう目をこらしてみても、僕には、希望は見つかりそうもなかった。
だからこそ、ギャグが増えた。
エンタテイメントと言われるようになった。
一時期、僕は、「希望のない絶望」つまり「意志のない絶望と、がっぷり四つに組もうとした。ほぼ同時期に出現した『ときめきに死す』という映画が、その答えを教えてくれた洗脳と自閉症の21世紀的ディスコミュニケーション状況を描いたその映画を映画館で見て、僕は涙を流した。おそらくこれが、未来の真実だと思った。そして、予想した通り、映画は大不評だった。
エンタテイメントのない時代は不幸だ、と思う。
が、エンタテイメント全盛の時代は、もっと不幸かもしれない。NYの映画館で、画面に向かって拍手をしている疲れた顔のプエルトリカンを見て、ふと、そう思った。アメリカという国は、みんな「希望のない絶望」を知っているから、エンタテイメントと叫び続けているのかもしれない。
めざすべきものは、ニセモノの物語でもなく、「意志のない絶望」でもなく、「希望のふりをした無知」でもなく、「絶望のふりをした希望」でもなく、ただ、「意志のある希望」それひとつ。現代において、希望をうたうことが、どれほど不可能なことか分かっている人なら説明の必要もないことだろう。
さて、で、僕は、またぞろ、暗そーな戯曲を書き始めた。
どこがどう流れて、そうなったのかは、とりたてて書くことじゃないだろう。
とにかく、また暗そーな戯曲を書き始めた。もちろんギャグはある。それが僕の無節操な所だ。とてもしんどいことだけど、そうしなきゃおもしろくないだろうと思っている。
(「転形」'85年0号)
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